野菜を摂りたい

自分の趣味について書きます

別冊「根本宗子」

あけましておめでとうございます。

観劇初めは別冊「根本宗子」『バー公演じゃないです』

8日のマチネ見てきました、実は初演も見てて2016年6月の中野HOPE。僕はこれを見て演劇にどハマりした作品なので個人的に思い入れが強くて、14日までやってるので是非見て欲しい作品なのです。当日券も15枚くらい最近毎日出てるし、行った感覚だと見切れ席も割と出そうな余裕ありました。あと70分と短めなので、普段演劇見ない人も簡単に見れます。駅前劇場なので下北沢駅南口徒歩0分です。

 

内容はハイスピード喜劇。主人公がこのような人格を形成するに至ったのは幼稚園受験の頃、ということから始まり最後にそれが回収されるという、ザックリとした感じですが。笑

内容に合わせ、役者の熱量もすごくて女性4人芝居なんですが息がぴったり合わないと良い作品にはならない。

初演時合わせると2回目の観劇でその頃の記憶が蘇りつつ、洗練されていて非常に良かったです。

 

根本宗子の次の作品が2月の東葛スポーツの一人芝居、5月のオーディションで集めた女優を使って浅草九劇で、7月にナイロンに客演、と一旦右肩上がりだった人気も横ばいになりつつここが正念場のように感じます。すごいえらそうに語ってすいません。ただ僕は根本宗子の書く文章が好きなんです。脚本も、彼女が書く何気ない会話が好きで、雑誌RiCEに連載されてる文章も、普通にいそうな、でも一人一人に愛情が注がれていてなんか読んでるこちらが救われる感じがある、というか。熱く語りすぎました。笑

 

p.s.

映画「8年越しの花嫁」

僕じゃ絶対見ないセレクトで、地元の友達と見ました。面白かったです。単純な恋愛作品じゃなくて闘病の末、実った愛が淡々と描かれています。北村一輝が非常に上手かったです。

 

あと成人しました。地元に帰って色んな価値観に改めて出会って、帰る前より今の方がほんと少し大人になった気分です。友人が妊娠していたり、結婚していたり、離婚も経験した人もいたし、それに触れると将来のこと考えますよね。

下北沢

12時手前に起きた。実際は8時に目が覚めてたのに外の寒さに負け携帯で漫画読んでたらまた寝てしまった。それだけのことなんだけど。

 

僕は上京して下北沢に住んでいる。東京は地方と違って駅(街)ごとに少しずつカラーが違う。それでいくと下北沢はカフェ、古着、演劇、LIVE、など若者寄りのカラーを持っている。ただ見渡すと色んな人が行き交っている。あと東京は1人でいるには最適な場所だと思う。近所づきあいしなくていいし僕もアパートの住人ほとんど知らないし挨拶さえしない時もある。

話逸れたけど下北沢はいいところだと我ながら思う。道を歩いてどこか入れば時間潰せる。ここに住めることに親に感謝しなければ。ただ最近南口のチェーン店が増えることに対しては少し嫌な気もしなくもない。

 

12時手前に起きて飯食ってレポート書こうとしてpc開いてもうまく作動しなくて諦めた。んでそこでちょうど友人から連絡が来て下北沢トリウッドで映画見ないか、と。合流して時間あったので北口のNEWYORK JOEに行った。銭湯を改修して作った古着屋で店名が入浴場と掛けてある。セーター欲しかったので1600円のものを購入。値段の割に良さげな感じで早速明日着てみよう。18時前になりトリウッドに戻り見たのは『アメリカン・スリープオーバー(The Myth of The American SleepOver)』軽くあらすじを言うと以下になる。

デトロイト郊外、夏休み最後の週末。少年は一目惚れした女性を探し、大学生は双子の姉妹の間で揺れ、少女は“楽しいなにか”を追い求める。
毎年恒例の「スリープオーバー」(お泊まり会)を舞台に若者たちの夏を輝かしく描いた青春群像劇。(公式サイトより引用)

これまでの経験上、群像劇って基本的にストーリーは無く淡々とそれぞれの物語が進むイメージがあってこの映画もまさにその通りだった。ていうか群像劇の定義がそうなのだろうか。

デトロイトという場所は同じだがそれぞれの話の男女は別のものとは交わらずにそれぞれで進んでいく。付き合ったり別れたり誰の彼氏とキスしたとかありきたりかもしれないけど10代の経験は忘れがたいものだ。だから邦題には書かれていないがもともとの英語にはMyth(神話)の意味を持つ。

下北沢トリウッドを堪能したあと般°若(パンニャ)に行ってきた。ずっと食べたかったカレー屋さんで芸能人の松尾貴史さんが経営するもの。

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僕が頼んだのは野菜カレー(1,080円)。普通に美味しかった。それ以外の感想は下手くそなので言いません。

 

来年から通うキャンパスは変わるけど住む場所はずっと下北沢にしようと思う。

 

シベリア少女鉄道

 

 

そういえばこの前京都旅行に行き東映映画太秦村で「突撃!忍者サスケショー」を見た際、よくある客をいじる演出で僕が指名され「大きな声でこの人を応援しないと前でアキラ100%やらせるよ!」って言われて頑張って大きな声出したのが11月のハイライト。

 

シベリア少女鉄道見てきました!!エビ中のやっさん見に行った!なんか色んな意味で頭悪かった(褒めてる)

 

最近ツイッターでよくあるクサい文章風に書いてみました。千秋楽のシベリア少女鉄道 vol.29<シベリア劇まつり>『残雪の轍/キャンディポップベリージャム!』見てきました。

今回はエビ中安本彩花と元C°-uteの中島早貴を主演に迎えいつものシベ少メンバーが支えるという形になっている。

 

ももクリ2017

行ってきました、冬のももクロは初めて。

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開演前は会場の外に併設されてるエリアに行きプロレス見ました。生でちゃんと見るの初めてだったんだけどとても面白かったです。ボクシンググローブはめてガードせずぶん殴りあうのが一番、印象に残りました。 これらのプロレス等も楽しまないとチケット代回収できないんで笑

 

んで17時半になり入場すると400LVで横からなのでほぼ見切れ席、注釈席のよう、モニターもろくに見えないクソ席引きました。まあ仕方ない。ももクロでいい席ほとんど引いたことないから受け入れられる。そう思い彼女らが出てきたらそんなことも関係なくなるだろう。

舞台は正面から見るとスノーボールのようになっておりその中でももクロの5人や今回はDMB(ダウンタウンももクロバンド)ではなく宗本康兵さんを中心としたカルテットが演奏するという形でした。パーカッションの朝倉真司さんは下北沢の珉亭で隣の机になったことがあって勝手に親しみを抱いています。笑

 

今回はovertureではなくOPがあり

何時だって挑戦者、LOST CHILD、BIRTHon BIRTH、真冬のサンサンサマータイム、僕等のセンチュリーが1ブロック。

僕等のセンチュリーのLOVE&PEACE、やりたかったので良かったです。何度も言うんですが冬のももクロのライブは初めてで冬曲がほんと嬉しくて最高です。

 

6.天国の名前

7. Wee-Tee-Wee-Tee

8.モノクロデッサン

9.きみゆき

サラバ、愛しき悲しみたちよ(神保彰さんのドラマによるパフォーマンス)

 

6曲目の「天国の名前」は阿久悠さんの未発表詩にNARASAKIさんが作曲しギターの音を前面に出して爽快なロックかと思いきや歌詞の内容はとても沁みて深いものになっている。これをももクロがもっと歌いこんでギター弾きながら歌うとより深いものになるんではないかと思った。ライブ時のスタンドマイクでの演出も悪くなかったが。

 

11.Neo STARGATE

12.チャイマゼロ

13.BLAST!

14.白い風

15.一粒の笑顔で

16.境界のペンデュラム

17.DECORATIN

 

BLAST!が聞きたかった、夏のバカ騒ぎでは歌い込みが少なくてコールがわからなくてPVの方が良いって思ったけど、やっぱライブの方がいいね。サビで一緒に腕振ってBLAST!GLASP!叫ぶと良きです。

境界ののペンデュラムのサビで「フッフー」っていうコールやめません?ももクロに合わない気がするのは俺だけでしょうか。

 

宗本カルテット、神保彰によるクリスマスソングメドレー

18.サンタさん(れにちゃんマジック)

19.モーレツ

20.シークレットラブストーリー

MC&自己紹介

 

シークレットラブストーリー来た。ほんとこの歌好きでクリスマスに聞きたい曲No.1。もともとは氣志團の曲なんだけどももクロが歌うとより良くなる。笑 

あと初めて生のれにちゃんマジック、「れにちゃんのもっといいとこ見てみたい」叫びました。

 

21.ヘンな期待しちゃダメだよ

22.夢は心のつばさ(山寺宏一さんゲストによる)

23.怪盗少女

24.灰とダイアモンド

25.白金の夜明け

本編終わり

 

21.ヘンな期待しちゃダメだよ、は清竜人さんの曲をもらったもので新たなももクロの一面を見せてくれた。佐々木彩夏withももメイツというグループらしい。笑 ただこの曲で1番良かったのは杏果で「なーんだかヘンなの?」「許して?」本当にクラッとくるくらい可愛かった。誰か共感ください。

山寺宏一さんがゲストで来てくれた。個人的な思いといえば The Last of Usのジョエルの声優を務めていてこんな早く生で会えるとは!

怪盗少女、灰ダイは言わずもがな。白金の夜明けは夏の2日目行ってなくて聞けなかったので良かった。白金もこのライブの締めとしてだいぶ定着してきたんじゃないかな。

 

アンコール

overture

26.泣いちゃいそう冬

27.空のカーテン

28.今宵、ライブの下で

終演

 

冬曲でアンコールを締めてきた。空のカーテンの落ちサビ「図書室に並んだ言葉だけじゃ本当の痛さはわからない。始まりと終わりをいつ知るだろう。毎年春は迷わず来てくれるのに。交差点でどっちに行けばゴールなんだろう。大丈夫、さあ行き止まり、そんときゃひきかえしてまた始めればいい」の部分好きです。夏菜子ちゃん素晴らしい。

 

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2,3ヶ月に1度ももクロのライブが無事に開演して、それは俺も参加できてという普通かもしれないけどそのことに改めて幸せに感じた。席は相変わらず悪いけど彼女らが出て来たらそんなのも関係なくなる、単純すぎるんだよな。笑

 

夏菜子ちゃんと杏果がほんと可愛かった。安定感半端じゃない。尊い

 

 

長くなりましたが以上です。

ナイロン100℃『ちょっと、まってください』

ナイロン100℃ 44th SESSION『ちょっと、まってください』@下北沢・本多劇場

 

 

2015年「消失」公演からおよそ2年、新作は2014年の「社長吸血記」公演以来3年ぶりとなるケラリーノ・サンドロヴィッチ率いるナイロン100℃が再始動します。
タイトルは「ちょっと、まってください」に決定!
宣伝ビジュアルとともに、全出演者と地方公演詳細も公開致しました。

作・演出:ケラリーノ・サンドロヴィッチ

 

 

 

 

まず言いたいのは、見ても理解できない。というか言いたいことが奥底にある感じで、俺はその表面にカスッたような気持ちだった。だからとりあえず不条理劇の定義を確認した。

 

不条理の定義を

不条理(ふじょうり)は、不合理であること、あるいは常識に反していることを指す。

不条理とは何よりもまず高度の滑稽である。なんらかのものあるいは人とうまく調和しないことを意味する。不条理とは通常の予測を外れた行動または思想であり、不条理な推論とは非論理的な推論である。

(Wikipediaより)

次に不条理劇の定義を

不条理演劇(ふじょうりえんげき)とは、人間、特に現代人の不条理性や不毛性を描こうとする戯曲や演劇の手法もしくはその手法に基づく演劇活動そのものを指す。不条理劇とも言われる。評論家マーティン・エスリンの著書“The Theatre of the Absurd” (1962年 日本語訳名『不条理の演劇』小田島雄志訳 1968年 晶文社)で命名され、定着した。

(Wikipediaより)

 

「不条理とは何よりもまず高度な滑稽である」って感じかなと、今回のものは。

 

 

明日はナイロン見に行くよ

更新滞っていました。なぜなら最近舞台見てないからです。ようやっと明日は本多へナイロン100°Cを見に行かせていただきます。なんか演劇に興味持って大人計画、ナイロン、新感線、キャラメルボックスは見ておかなきゃっていう謎の使命感を持ってやっと3つ制覇しそうです。新感線はまじで高くて見に行けそうにないので、回る劇場以外で見に行こうかなと。んで明日のナイロン、3時間と長丁場に加え不条理劇で多分色々初めてで困ってます。とりあえず見てきます。

 

1月見るもの

根本宗子「バー公演じゃないです」@駅前劇場(多分2回見る)

秘密の花園@芸劇

玉田企画

ロ字ック「滅びの国」@本多

虚構の劇団

 

ねもしゅー以外初めて見に行きます。楽しみです。

最近気になることいろいろ

今週のお題「芸術の秋」

 

何日かに分けて書いてたので内容などバラバラです。ご容赦ください。

 

私立恵比寿中学11thシングル『シンガロン・シンガソン』11/8発売。今回はiTunesで買いました。MVはYouTubeで見れるんだけど、さわやかなPOPな感じとぁぃぁぃを送る憂いな感じも伝わって良い感じ。作詞作曲がMrs.GreenAppleの大森元貴さんでついさっき出たナタリーの記事にぁぃぁぃとの対談が載ってて、ちゃんとエビ中の下調べをしてくれていて好感を持てる。てか大森さん21歳って知ってビックリ。1歳しか変わらないのか。 あと有安のソロアルバムに『TRAVEL FANTASISTA』を提供してくれたOfficial髭男dismも最近気になっていて『ブラザーズ』っていう曲好きです。まとめるとMrs.GreenApple、Official髭男dism気になってます。

 

ただエビ中の話になると、You Tubeに載ってるMVあれじゃファミリー(エビ中ファンの総称)以外見ないでしょ。確かにぁぃぁぃを送るためにその色を出すのはいいけどもうちょっと直球にかっこいいかわいいMVでも良かった気がする。1月3日の武道館行きたかったなぁー。地元帰るので行けません。 6人になっても応援します、3年間好きなので愛着や思い入れが結構あるからね。

 

 

 非常に気になる文章を見つけ出したので長くなりますが要点だけ引用させていただきました。

 リンク元http://lite.blogos.com/article/256652/

内田樹「大学教育は生き延びられるのか?」

正直に言って、日本の大学は、このままではもう先はないです。教育制度は惰性が強いですから、簡単には潰れはしません。民間企業のようにいきなり倒産するということはない。でも、じりじりと駄目になってゆく。長期停滞傾向が続いて、20年、30年経ったあたりで、もう本当に使い物にならなる。それでもまだ組織としてはもつでしょう。医療とか教育というのは「それがなくては共同体が存続しえない」本質的な制度ですから、最終的には現場にいる人たちが身体を張って守ります。

ですから、どんなにシステムがおかしくなっても、公的な支援が途絶えても、それでもなんとか持続はします。でも、それはほんとうに現場の人が命を削ってもたせているからもっているのであって、公的制度としてはもう破綻している。ブラック企業と同じでです。フロントラインに立ってる生身の人間が必死になって現場を回しているわけで、その人たちがばたばた過労死しているおかげでかろうじてシステムの体をなしている。大学もそういう状況にいずれなりますし、局所的にはもうそうなっている。

医療の世界でかつて「立ち去り型サボタージュ」という言葉が使われました。

小松秀樹さんの書かれた『医療崩壊』という本がその事実を明らかにしました。小松先生とは一度お会いしたことがありますけれど、その時に教えられたのは、「医療崩壊」というけれど、医療もやはり惰性の強いシステムなので、簡単には崩壊しないということでした。それは現場に立って医療の最前線を守っているドクターやナースは自分の健康や家庭生活を犠牲にしても医療を守ろうとするからです。

そういう「業」を抱えた人が医療の現場に立っている。だから、制度的に破綻していても、簡単には崩壊しないんだ、と。でも、生身の人間ですから、彼らのオーバーアチーブメントに頼って支援の手当をせずに放置しておけば、いずれ一人倒れ二人倒れ、前線の維持が難しくなる。そういうお話でした。

10年ぐらい前に医療で起きたのと同じことが今、大学で起こっているような気がします。教育現場で働いてる人間を支援するという体制が国にも自治体にもメディアにも市民社会にもない。逆に、公的な制度やメディアが現場の教職員たちを追いつめている。精神的にも身体的にも「まだ働き方が足りない」と負荷をかけている。

それでもなんとか現場がもっているのは、教育に関わる人間もまた医療人と同じようにある種の「業」を抱えているからです。教員という職業を選ぶ人には一定の傾向性があります。

医療を職業に選ぶ人たちと同じように、教員は学校という場が好きなんです。教室で若い人たちの前に立って何かを教えることが好きで、研究が好きで、アカデミアで異なる領域の知性と出会うことが好きで、という人が学校教育の場には引き寄せられてくる。だから、常軌を逸した負荷がかかっていても、なんとか踏みとどまろうとする。家庭生活や健康を犠牲にしても、自分の職域を守り抜こうとする。今の日本の大学がこれほど否定的環境にありながら、なんとか保っているのは、教育人たちのこの「業の深さ」のおかげです。

でも、生身の人間が蔵している生命資源は本来であれば他のことに使わなければいけないものです。一家団欒とか、文化活動とか。運動したり、遊んだり、自分の好きな研究をしたり、そういう本当にしたいことを断念して、その資源を学校の管理業務とか文科省の命じてくる意味のない作業に割かなければならない。

 

 

 

転換点は91年の大学設置基準の大綱化でした。それまでの日本の大学はよく言われる通り「護送船団方式」でした。いわゆる「親方日の丸」です。箸の上げ下ろしまでうるさく文部省が指図する代わりに、面倒は全部見る。そういう家父長制的な制度だった。

でも、大綱化によって、細かいことに関しては、大学の自由に任せようということになった。家父長的な制度がなくなって、大学が自由にカリキュラムを作ることができるようになったことそれ自体はたいへんよいことだったと僕は思います。当時も僕はこの方向性を歓迎しておりました。「自己決定・自己責任」でいいじゃないかと僕も思いました。でも、文科省が大学に自由を与え、権限委譲することに裏がないはずがない。実際にそれが意味したのは大学の淘汰を市場に委ねるということでした。

91年段階で、今後18歳人口が急激に減ってゆくことが予測されていました。60年代には250万人いた18歳人口は以後漸減して76年に156万まで減りましたが、その後V字回復して1992年に205万人に戻しました。そして、そこから減り続けた。2017年では120万人。25年間で40%減少したことになります。

大綱化は18歳人口がピークアウトして、以後急減局面に入り、増え過ぎた大学定員を満たすことが困難な局面に入るということがはっきりわかった時点で導入されました。これから大学の数を減らさなければいけないということは文科省(当時は文部省)にもわかっていました。もう護送船団方式は維持できない。文部省と大学はそれまで親鳥とひな鳥のような関係でした。親鳥はひな鳥を扶養する代わりにあらゆることについて口出しした。でも、親鳥が増え過ぎたひな鳥を扶養できない時代がもうすぐ来ることがわかった。

護送船団のロジックからしたら、ひな鳥が死んだらそれは親鳥の責任になる。こんな弱い鳥を産んだお前が悪いということになる。でも、これから後、ひな鳥はばたばた死ぬ。だから、親鳥の仕事を放棄して、「これからは自己裁量で生き抜きなさい」と言い出した。なぜ、淘汰圧に耐えられないような高等教育機関をなぜ認可したのか。なぜそこに税金を投入したのか。そういう問いに対して文部省には備えがなかったからです。

でも、それはある意味では当然のことでした。明治の近代学制の導入以来、日本の教育行政の最大の使命は教育機会の増大だったからです。国民にいか多くの、良質な就学機会を提供するか、それが近代日本の教育行政の本務だった。だから、学校を増やすことを正当化するロジックでしたら教育官僚は無限に作り出すことができた。

そして、実際にそのロジックを駆使して、国民の就学機会を増やし続けたのです。それは敗戦後も変わりませんでした。敗戦国日本は軍事力や外交力ではなく、むしろ経済力や教育力や学術的発信力によって国際社会に認知される道を進むべきだということについては国民的な合意が形成されていました。

だから、ある意味で文部省の仕事は簡単だったのです。でも、80年代になって難問に遭遇しました。18歳人口が減ることがわかってきたからです。しばらくは大学進学率の上昇が期待できるので、大学定員は満たせるだろうけれど、それもどこかで天井を打つ。そのあとは大学を減らさなければならない。

でも、文科省にはどうやって教育機会を増やすかについての理屈はあるけれど、どうやって教育機会を減らすかのロジックがなかった。護送船団方式でそれまでやってきたわけですから、自分が認可し、自分が指図して育てて来た大学に対して「お前は失敗作だったから廃校しろ」というわけにはゆかない。製造者責任を問われるのは文部省自身だからです。

そこで大学の淘汰は市場に委ねるというアイディアに飛びついたのです。強者が生き残り、弱者は淘汰されるというのは市場では自明のことです。自分の生んで育てたひな鳥を殺す仕事を親鳥は放棄して、市場に丸投げしたのです。これが91年の大学設置基準大綱化の歴史的な意味です。これは明治維新以降の教育行政の決定的な転換点でした。

 

 


大綱化というのは自由化のことだと僕は勘違いしていました。でも、そうではなかったんです。それは「どの大学から順番に淘汰されてゆくかを可視化して、市場に開示せよ」ということだったのです。

僕は大学のカリキュラムの自由化によって、それぞれ日本中の大学が、それぞれの教育理念と教育方法を持ち、それぞれの教育プログラムを編成して、それぞれ異なる達成目標をめざすということになると思い込んでいた。でも、大綱化から後、大学に求められたのは均質化・同質化でした。

「自由に競争してよい」というものの、その競争の結果出てくる優劣の差はわかりやすい仕方で表示されなければならない。それは競争することは自由になったけれど、教育や研究のあり方が自由になったわけではない。むしろそれはより不自由なものにならざるを得なかった。というのは、格付けのためには全ての大学の活動を同じ「ものさし」で考量する必要があったからです。

格付けというのはそういうことです。複数の教育機関の優劣を判定するためには、同じ「ものさし」をあてがって差を数値的に表示しなければならない。入学者の偏差値であるとか、就職率であるとか、卒業時点でのTOEICスコアであるとか、そういう共通性の高い「ものさし」を当ててみせないと大学間の優劣は可視化できない。そして、そのためにはものさしが当てやすいように教育内容を揃えることが全大学に求められることになった。

まことに逆説的なことですけれど、「好きにやってよい。その結果について格付けをする」と言われたのだけれど、よく考えてみたら「同じようなことをしないと格付けができない」以上、日本中の大学が自発的に相互模倣する他ないという倒錯的な事態が生じることになったのでした。

 

 

多様なできごとが無秩序に生起している場所でのみ、それらのうちで最も「生き延びる」確率の高いものが際立ってくる。「ランダムさのないところに新たなものは生じない」(Without the random, there can be no new thing)。これは『精神と自然』の中のグレゴリー・ベイトソンの言葉です。日本の大学教育はまさにその逆の方向に向かって進んでいる。でも、すべてが規格化され、単一の「ものさし」で比較考量され、格付けされるところからは、いかなる新しいものも生まれません。

教育の目的というのは、一言にして尽くせば、どうやって若い同胞たちの成熟を支援するか、それだけです。格付けとは何の関係もない。精密な格付けをすれば、若い人たちがどんどん知性的・感性的に成熟するというエビデンスがあるというのなら、大学からイノベーティヴな発見が次々世界に向けて発信されているというエビデンスがあるというのなら、格付けしたって結構です。でも、そんなエビデンスはどこにもありません。あるのは、大学が評価や査定や格付けにかまけてきた間に日本の大学の学術的発信力は先進国最低レベルに低下したという冷厳な事実だけです。

今、子どもたちの貧困が大きな社会問題になっていますけれど、貧困層の再生産には残念ながら子どもたち自身も消極的には加担してるんです。それは貧困層の人たちに対しては学校でも地域社会でも、「貧乏人らしくふるまえ」という強いプレッシャーがあるからです。貧しい人間は身を縮めて生きるべきだ、イノベーションを担ったり、リーダーシップをとったりすることは許されない。そういう考え方を持つ人が多数派です。そして、貧困層自身も、そういう社会観を自身のうちに内面化してしまっている。自分は貧しいのだから、楽しそうに生きてはいけない。明るくふるまってはいけない。新しいアイディアを提出してはいけない。リーダーシップをとってはいけない、そういう外部からの禁圧をそのまま内面化してしまっている。

以前、ある子育て中の母親がそう訴えていました。その人はシングルマザーで、確かに生活は苦しい。本当なら、親が貧しいことと子どもたちがのびのびと暮らすことの間には関係ないはずなのだけれど、貧しいというだけで、子どもたち自身が委縮してる。貧しい人間はにこにこしてはいけないと思っている。貧しくて不幸だという顔をしなくてはいけない。周囲がそういうふるまいを期待しているので、子どもたちはそれに応えてしまっているんじゃないか、と。

これは例えば生活保護を受けてる人がパチンコやったら許さないとか、芝居や映画見に行ったら怒るとかいうのと同じですね。主婦が子どもを保育園に預けて演劇見に行ったら、「ふざけるな」と怒鳴る人がいる。意地悪なんです。それが社会的なフェアネスだと本気で思って、意地悪をする。異常ですよ、皆さん。でも、日本はもうそういう異常な人が自分のことを「異常」だと思わないくらいに異常な社会になっているんです。

同じことが大学生自身にも起きている。低いランク付けをされると、自動的に自己評価も下方修正してしまう。あなた方はランクが低いんだから、もっとおどおどしなさい、もっといじけなさいって言われると、大学生の方も納得してしまって、おどおどして、いじけるようになる。

格付けのせいで、いじけて、怯えて、自己評価を下げて、自分には何もたいしたことなんかできやしないと思っている若者たちを今の日本社会は大量に生み出しています。そんな人たちがどうして未来の日本を支えてゆくことができるでしょう。

冒頭に結論を申し上げましたけど、とにかく日本の大学は、今行われているような仕組みを是認されるのであれば、先はないです。日本の大学は滅びます、遠からず。どこかで抵抗するしかありません。「もういい加減にしてくれ」って、声を上げるべきです。

文科省だってそんなにバカばかりじゃない。官僚の中には過去25年間の教育行政がことごとく失敗だったということを素直に認める人だってきっといると思います。でも、役人はその性として「間違えました」「すみません」とは言いません。

だから、大学側で声を合わせて言うしかないんです。国立大学の先生は立場上なかなか声を出しにくいかも知れませんけれど、でも声を出して欲しい。どうしたら教職員がイノベーティブになれるか。どうしたらキャンパスの中がもっと明るくなるか。教職員も学生も笑顔でいて、知的な刺激に満ちている環境をどうやって作るか。それについて考える事が最優先の課題だと僕は思います。

このまま手をつかねていたら、日本の大学は滅びます。

皆さんが生活を犠牲にして、命を削って、大学のフロントラインを死守していることを僕はよく存じていますし、それに対して敬意も持ってます。でも、生身の人間ですから、無理は効きません。どこかで燃え尽きてしまう。だから、燃え尽きる前に、声を上げて欲しいと思います。「もういい加減にしろ」って。ちゃぶ台をひっくり返して頂きたい。日本中の学校で先生たちが一斉にちゃぶ台返しをしてくれたら、日本の未来も大学教育も救われるんじゃないかと思ってます。どうぞ頑張っていただきたいと思います。

ご清聴ありがとうございました。

(2016年5月19日、国立大学教養教育実施組織会議特別講演・サンポートホール高松にて)

大綱化により自由になると思っていた大学教育は、逆にそれによって測るものが同一のものになり均質化が進む。なるほど過ぎてなんも言えねぇ。確かに僕も今の大学の授業で面白いと思っているのはゼミのプロレタリア文学を学ぶことしかない。TOEICや留学も測りの一種となっていることに驚いた。もちろん就職先や就職率も。大学4年間を改めて無駄にできない、人と同じことをやるにも考えて動かなければいけないとこの文章を読んで思いました。少しでも大学教育に関心を持ってもらいたいと思い、この引用をさせていただきました。内田樹さんのほかの評論も読んでみようと思います。

 

 

 

 

 

 もうひとつとても良い文章だったので引用させていただきました。

 引用:重松清『流星ワゴン』解説・斎藤美奈子氏より

フランスの社会史家エリザベート・バダンテールは『XY-男とは何か』(筑摩書房

〈19世紀半ばを過ぎて工業社会が実現すると家庭は新しい相貌を帯び始めた。男性たちは一日中、工場、鉱山、オフィスなど家庭の外で働かなければならなくなった。都会に住む家族の父親と子どもとの接触は著しく減り、父親は子どもの目には何かわけのわからない仕事をしている遠い存在になってしまった。(略)その五〇年後には、世界は交流の全くない異質な領域に二分された。母親が管理する家族という私的な領域と、男だけの国である公的な職業の領域である。〉

日本でも事情はまったく同じである。ことの戦後の高度成長期以降、職場と家庭は完全に分断され、父と子の距離はどんどん離れていった。父と息子の不幸はここから始まる。家庭の中での居場所を失った父親は(A)家長としての威厳を保とうとして権威を振りかざすか、(B)愛情のある父親を演じようとして子どもたちの機嫌を取るか、極端に言えばその二つしかなくなる。一方、息子は、父の生活圏(職場)と切り離されてしまったために、自己同一化の男性モデルを父に見出すことが難しくなる。結果、最終的に残った父親像は〈近づきがたい遠い父親か、男らしくない軽蔑される父親〉の二つに一つだどバダンデールは言うのである。

父親は息子にとって、妥協を知らない近寄りがたい神のようだった。この恐ろしい男のことを後になって息子はこう言うのであろう。「僕が家の外で何をしているのか、僕にどんな仲間がいるのか、彼は一度も尋ねたことはなかったし、僕の学校の成績を心配してくれたという記憶もない。」このように、権威主義の家父長と、よそよそしい母親とに苦しんだ子どもは「並外れて愛情深い」父親になる。ところが今度は、このやさしい父親の子どもたちは彼を厳しく裁く。父親が妻の尻に完全に敷かれているように見えるからである。(『XY——男とは何か』)

まるで流星ワゴンの二人の父、チュウさんとカズみたい。

『流星ワゴン』を読む人が「身につまされる」のは偶然ではない。社会学的にも根拠のある近代の父子の典型的な関係が、描かれているからなのだ。

 

 

この小説を読んで、最後の解説を読んでみるととても納得したので載せてみました。『流星ワゴン』は父子の物語、主人公は父でもあり、子でもある。自分は会社を解雇されかけ、息子は中学受験を失敗しひきこもりに、奥さんは一日帰ってこないことなどしばしば、と家庭が崩壊し、実の父親も癌で死にかけており「御車代」をもらいに地元に帰るようになる。死のうかな、と思ったときに不思議なワゴンに拾われる。そして自分と同い歳の父親に出会う、人生の岐路になった場所へ時空を超えてワゴンが巡る、というお話である。上にも書いてある通り非常に身をつまされるのである。

自分も父親と高校3年生までまともに喋ったことはなかった。喋るとしても母親を通して言うとか、敬語使ったりしていた。なんだか恐かった、家族で歩くと後ろを気にせず一人でドンドン進む父が嫌いだった。下手すればこの物語のように僕たちの関係は一歩間違えば壊れていたかもしれない。その時に僕らをつないだのはももクロだった。父親と共通の趣味を持つことによってテレビで一緒に見たり、このこと知ってる?という風に喋るようになった。次のももいろクリスマス2017には父親と共に参戦する予定である。このように子どもからも父側からも歩み寄ることが大切なんだと自分を顧みて思う。

 

 

 

ロロ『父母姉僕弟君』

2017年11月2日(木)~12日(日)東京都・ シアターサンモール

正直、全然面白くなかった。友人からは「泣いた」と言われ、ちょっとTwitterで「ロロ 父母」と調べてみると絶賛のツイートばかりだったので期待していった。100mハードルですべてのハードルを倒しながらゴールするように僕の期待を裏切っていった。前回スズナリで上演した『BGM』は最高だったのに。まずストーリーの大筋は分かるんだけど、亀島一徳・島田桃子以外の役者の役の意味がよくわからない。現在・過去・未来が入り混じっている感じは分かるんだけどいまやっているのがどこなのかわからなくて困った。どちらかと言えば、野球よりサッカーをやってきた人間なので野球選手の名前言われてもそれだけで一気に置いて行かれる。ただ最後のシーンは野球のバットでセットの背景のベニヤの一部分を壊すと栗の木が見え、そこで雨 天球(島田桃子)とキッド(亀島一徳)再会するシーンは非常にきれいで舞台映えするものだった。という感じで初期のロロ作品をリメイクするものはもう行かないことにした。次回のKAATの公演も初期のものに大幅なリライトを加え新作として上演と書いてあるが見送る。ロロの劇団員はうまくて好きなんだけど脚本がよくわかんなければ役者は活きない。『BGM』が再演されるなら見に行くことにする。

という風な感じだったのでロロはあえて記事にしませんでした。